『キャロル』 :あまりに尊く、そして尊すぎる物語。

評価★★★★★★★
原題Carol
公開2016
時間118 min
監督トッド・ヘインズ
出演ケイト・ブランシェット
ルーニー・マーラ
カイル・チャンドラー
ド・リンク

題名について

美しい。美しすぎる。映像もストーリーもキャラクターも、何もかもが美しい。ダメだ。この作品のことを考えただけで、目が潤んで記事が書けない。

まずタイトルの「キャロル」(原題も同様に「Carol」)である。一見すると、このタイトルから、作品においてはケイト・ブランシェット演じるキャロルのほうが中心、ないし主人公であるように思える。しかしこの見方は違う。これは確実にルーニー・マーラ演じるテリーの視点からの「キャロル」である。この違いはとてつもなく重要だ。これこそがこの作品の本質を表しているとも言えるからだ。

謎の冒頭の一幕

舞台は50年代ニューヨーク。ジャックと名乗る男が、とある女性と二人で席を取っている知り合いのテレーズ・べリベット(ルーニー・マーラ)に、後ろ姿ながら気づき、話しかける。テレーズ(以降テリー)の友人ジャックが来たことで、テリーの対面に座っていたキャロル・エアード(ケイト・ブランシェット)は、テリーとの面会を早々に終わらせ、抱えていた別の会食へと向かう。テリーにもこの後パーティへ出席する用事があったからだ。

その後、キャロルと別れたテリーの後ろ姿がしばらく映し出される。そしてパーティへと向かうテリー。

この時点では何の変哲もない、意味不明の一幕であるが、作品の最後にこのシーンは再び繰り返される。実はこのシーンは物語終了前の最重要な一情景であり、観客にとっても、冒頭における場合と作品の最後では、見方が全く異なってくる。

物語の本来の始まりは、クリスマス商戦中のデパート玩具フロアである。テリーは売り場の販売員であるが、カウンター内でつまらない顔で店員をしている。だがそこで、遠目に見えた客の女性のひとりに心を奪われる。

女性は一児の母親キャロル。テリーはキャロルに列車の玩具を販売するが、その際にキャロルは手袋をカウンターの上に忘れてしまう。この他愛もない一件が、二人とって人生を左右する貴重な邂逅となる。

主題ではない同性愛

もうひとつ言っておかねばならない重要な点として、キャロルとテリーの女性同士の恋愛はこの作品における重要なファクターの一つだが、レズビアン、つまりホモセクシュアルそれ自体が論点ではないということだ。

50年代米国において、同性愛は軽犯罪だった。訴えられれば最大で六ヶ月は刑務所行きである。また同性愛は「ソドミー」の一部とされ、キリスト教的倫理に反する大きな罪だったことに留意する必要がある。

すなわち、当時の同性愛者は社会的に異常者であり完全な被差別的対象であるということだ。

『キャロル』の中では、同性愛差別の克服が主題ではないためにこの点に関して極めて穏便にしか触れられていないが、現実の50年代では、全くそうではなかった。

いや、はっきり言おう。これは現在2019年でも、アブラハムの宗教(イスラム、ユダヤ、キリスト教)圏内では同性愛は完全に侮蔑と差別、そして暴力の対象である。ただ現代では一部メディアを始め理解者も決して少なくないが、50年代は「理解者」などほぼ全く存在しなかった時代であるということだ。

「私たちは醜くないはずよ」

テリーはデパートで働く、日本式で言うところの「社会人」だが、少なくとも後にニューヨークタイムズ社に勤めるようになるまで、アウティングの重大さをそれほど意識していなかったように見える。

物語の当初、テリーは自分が同性愛者であるという可能性に気づいていない。キャロルとの付き合いを通じて少しづつ自分の感情を知り始めるのだ。またテリーは「ノー」とは言えないという性格だということも、そういったテリーのある種の処女性を表していると言えよう。だからキャロルによる自分との別れの決断を、テリーはなかなか理解することができない。

一方キャロルにとっては同性愛者であるという暴露が何を意味するか分かりすぎるほどに理解していた。一人娘リンディを持ち、かつ離婚間際であるキャロルにとって、倫理に反する行為は確実にリンディとの別れを意味する。同性愛者に親権者たる資格はないのだ。

弁護士たちが同席する親権者調停の席で、自分の同性愛を認め、自分が当時の社会的に「あってはならない」存在であると認め、娘にとっては夫こそが親権者に相応しいと認めざるを得なかったときの、キャロルの心情は表現し難い。おそらくキャロルは自分が社会的に許されざる存在であることを受け入れたのだ。

もう一度書くが、この作品の主題は同性愛者差別社会の克服などではない。そういった社会で自分が何者であるか、そしてその何者かの個人としての生き方を描いているのだ。”We are not ugly people”「私たちは醜くないはずよ」という叫び声は、夫に対してだけ向けられた言葉ではないはずだ。

再度冒頭の一幕へ

冒頭のワンシーンに戻った物語は、今度はテリーの心情を如実に映し出す。注目すべきは、キャロルと別れてからニューヨークタイムズ社に努めてより世間を知り、また自分が何者であるかを知ったテリーの 「花開いた」 表情である。

作品冒頭ではテリーの背後から映されていたが、ここでは正面からテリーの表情を捉える。それは鎧を纏い完全に防備を整えた者の顔である。テリーはキャロルへの愛を隠し、自分を偽らざるを得ない。テリーは「一緒に住もう」というキャロルの提案を断る。「愛している」というキャロルの言葉にも表情を変えない。だがキャロルが別れのために自分の肩に手を触れたとき、テリーはキャロルの忘れ難い香り、CHANELのココ マドモワゼルに気づく。

煙草について

最後にもうひとつ。この作品に使われている欠かせないアイテムとして煙草がある。この作品内では多くの登場人物がいつも煙草を吸っていて、煙草のないシーンなど無いと言っていいくらいである。

50年代アメリカは女性にも喫煙が普及した時代であり、おそらく四人に一人くらいの割合では女性の喫煙者がいたのではないかと思われる。おそらくはこの煙草は、単なる女性の権利向上という意味あいだけでなく、倫理観の一つのモチーフとして使用されているのだと考えられる。

現代ではほぼ禁止といっていい煙草は、50年代は禁止の「き」の字もなかった。これは現代では半ば受け入られつつある同性愛と逆である。煙草が許容され同性愛が容認されない50年代、対して同性愛が甘受され煙草が制限される現代、その対比であろう。

<おわり>

ド・リンク